雑学のススメ No.13(04・10/11)

「長岡市は新潟県で二番目の大都市」
〜信濃川の恵み〜
 2004年10月23日17時56分観測史上最強の地震が発生しました。新潟県中越地震です。地震発生から1ヶ月が過ぎましたが、テレビのニュースで報道されない日はありません。その中心に位置する「長岡市」が今年一番注目された「市」になりました。
 新潟県の市別人口を調べてみました。(2004年9月1日現在)
 @ 新潟市 530,447人
 A 長岡市 194,630人
 B 上越市 135,661人
 C 新発田市 89,917人
 D 柏崎市 86,883人

 テレビで報道される「長岡市」は山古志やまこし村に代表されるように山ばかりに見えますし、日本有数の豪雪地帯からあまり離れていないのですが、新潟市に次いで2番目に人口が多い20万都市として発展しているのには、それなりの理由があるはずです。

 【平成の現在での考察】
 上越線と信越本線の分岐点、国道17号線や関越自動車道が通り日本海と太平洋を結ぶ大動脈の重要中継地、など交通の要地であり、東京に近く工業製品の供給地として発展しています。
 【江戸時代中期では】
 佐渡の金を江戸に運んだルートでは?確かに三国街道(佐渡→寺泊→長岡→湯沢→三国峠→高崎→江戸298km)は最短距離でしたが、上越の山越えが困難なため距離は長いが安全な北国街道(佐渡→出雲崎→柏崎→善光寺→追分→高崎→江戸393km)がメインでした。宿場町としての長岡ではインパクトが弱そうです。
 【江戸時代初期では】
 長岡の町で聞きました。「長岡市はどうして新潟県で2番目に大きいのですか?」と。
皆さん首を振るばかりです。長岡駅の近くに市立の図書館「互尊文庫」がありました。館長さんに直接お伺いしました。
 「長岡」の地名が文献に現れるのは、比較的新しく慶長10年(1605年)のころで、信濃川を渡る「蔵王渡し」が「草生津(くそうづ)渡し」(上流)に替わり、信濃川の右岸に「長岡」という町が出来たことが知られています。地名の由来は信濃川の左岸から見て、長い丘陵があったからという説が有力です。
 確かに長岡駅の西を信濃川が流れています。古い絵図面に船着場や倉庫が川沿いに所狭しと並んでいます。上流で生産される小千谷ちりめんに代表される伝統的な物資を、日本海を利用して遠く大坂や江戸へ運ぶ為に、「長岡の船着場」で積み替えていたのです。「長岡」は越後平野の最も山沿いにあり、川底の浅い上流の信濃川が急になだらかになり、外海を航行することができる大型船が信濃川を遡ってこられる限界の地にあります。長岡藩は代官料所を設け通船料や庭銭(倉敷料)を徴収することによって発展したのです。
 明治21年(1888年)日本石油(株)が創設され石油ブームに沸いたときも、草生津(草生水は石油のこと)渡しが積み出し港になりました。
 今回の震災後も「牛」や「鯉」をヘリコプターで輸送するニュースがありました。山からの湧き水で育てたおいしいお米(魚沼産コシヒカリ)は日本一といわれています。「長岡」には全国的にレベルの高い交易品が集まってきました。
 「長岡」の発展は貴重な商品を全国に搬送することが出来る「信濃川」があったからなのです。
 信濃川の河川交通を独占し越後の富を得て発展した「長岡」も、いつも順風満帆であったとはいえません。
 ・ 幕末、度重なる洪水や飢饉によって財政困難に陥った長岡藩で藩政改革を断行した「河井継之介」の登場。
 ・ 慶応4年(1868年)城下がほぼ全焼した「戊辰戦争」。
 ・ 昭和20年8月1日(1945年)太平洋戦争の戦争が終わる15日前の「大空襲」。
など不幸な出来事がありました。

 壊滅的な打撃を受けながら不死鳥の如く甦った「長岡」が、今回の大震災を乗り越え更に一段と魅力のある町として復活してくれることを祈っています。