雑学のススメ No.30(07.8/07.9)

「今に残る豊臣秀吉ゆかりの地名」
〜400年の時を越えて〜
 17世紀、政治の中心は江戸(東京)に移りましたが、大阪は「天下の台所」つまり、全国の経済や物流を取り仕切る所として重要な役割を果たして来ました。今も「商都」として現代にその名を伝えていますが、その基盤を築いたのは「大坂」を天下の中心にした「豊臣秀吉」に他なりません。21世紀の現在、400年の時を越えて大阪城周辺に残る「豊臣秀吉」ゆかりの地名を探して見ました。

【天下茶屋】  西成区
 先ず、最初に思い浮かぶ場所があります。それは100%間違いなく「天下茶屋」ではないでしょうか。
 この地は元「勝間新家」と称していましたが、芽木光立が武野紹鴎の旧地に茶店を出し、豊臣秀吉が住吉大社参詣や堺への往来の際、この茶店で休憩したことから

「太閤殿下茶屋」といい、転じて「天下茶屋」と呼ばれるようになったといわれています。

【真田山】  天王寺区 JR大阪環状線「玉造」
 慶長19年(1614)大坂冬の陣の際、大坂城の弱点とされる南方面の防御を強化するために、大坂方の真田幸村が築いた出丸が「真田丸」です。冬の陣には幸村以下数千の将兵が立籠り、12月4日徳川方の軍勢と激戦し、徳川方の敗北に終っています。この戦いは真田幸村の名を天下に知らしめると同時に、徳川側と和睦するキッカケになったと言われています。(夏の陣で豊臣家滅亡)
 右の銅像は「宰相山公園」にある三光神社の境内に建っている真田幸村です。この像の左側に「真田の抜け穴」と言われる遺構があり、大坂城?からここに至まで、地下に暗道を設けたと言い伝えられています。

(「真田山町」は昭和40年以降に生まれた新しい地名)

【靱(うつぼ)公園】 大阪市西区 (地下鉄四ツ橋線「肥後橋」と「本町」の間)
 「科学技術センター」は靱公園の中に建っています。靱公園の西庭には16面のテニスコートがあり、国際大会にも利用できる「うつぼテニスセンター」があります。
 豊臣秀吉が或る日お供を従えて市中を巡視していると、町の中で魚屋が「やすい!やすい!」と威勢の良い掛け声で魚を売っているのを耳にして、「やす(矢巣)とは靱(矢を入れる道具)のことじゃ。」といったので、その言葉にあやかって「靱」(うつぼ)という町名がつけられたといわれています。    


(大阪市西区のホームページより)

【土佐堀・江戸堀・京町堀・阿波座】  大阪市西区

 地下鉄四ツ橋線の「肥後橋」(肥後熊本細川藩の蔵屋敷があった)から「本町」に向かって右側(西側)には全国各地からの移住者が住んでいたところがあります。
 豊臣秀吉の大坂城築城に伴って城下町が出来、その外縁部に海と城下を結ぶために町人町が開発されました。「肥後橋」から南に向かって順に「土佐堀」(土佐高知の商人が群居していた所)、「京町堀」(京都伏見京町から移住してきた町人が開発した所)、「阿波座」(阿波徳島の商人が群居していた所)と往時が偲ばれます。
(「江戸堀」:1617年徳川幕府の統制下に入って最初に掘った掘割を記念して江戸堀と名づけられたところから生まれた町名)

【立売堀(いたちぼり】  大阪市西区 地下鉄四ツ橋線の「本町」
 大坂冬の陣・夏の陣に際して、「伊達(だて)家」の陣所が置かれていた地で、その要害の堀切であったところから「伊達掘(だてぼり)」と称されていました。今では「伊達」を「だて」と正しく読めますが、その当時の多くの人々は「だて」と読んでくれたかどうか大いに疑問です。「伊達」を「いたち」と読むほうが抵抗がなかったのでしょう。さらに近辺で材木の立売が許可されたため、「立売堀」の字を用いるようになったとされます。