雑学のススメ No.31(07.12/08.1)

「汽笛一声新橋を」に漕ぎつけるまで
〜明治維新の大プロジェクトに賭けた人々〜
 「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・・・」1872年(明治5年)10月14日(旧暦9月12日)午前10時、「横浜」に向けてわが国最初の蒸気機関車が走り始めた瞬間です。たった29kmですがその後わずか100年で、世界に誇る総延長約2万kmの鉄道網(地球の半周)を築くことになった第1歩なのです。
 わが国の人々が蒸気機関車を見たのは、この歴史的瞬間を遡ること約20年前になります。

(現新橋駅にある鉄道唱歌の碑)
1853年(嘉永6年)にロシアのプチャーチン、1854年(嘉永7年)にアメリカのペリーがいずれも、開国の要求をもって来航した時、蒸気機関車の模型を持ってきており、ペリー艦隊の場合は徳川将軍に献上しています。
 いわゆる「黒船」がもたらした衝撃は当時の日本人にとって驚異であると同時に、蒸気動力という全く新しい動力の存在と巨砲を積んでも沈むことのない鉄製の船体は、これまでの日本人が持っていた技術的通念を完全に超越したものでした。
 ロシアのプチャーチンが長崎に来航した時、艦艇上で走らせた蒸気機関車の鉄道模型を見た人々の中で、自らの手で作ってみようとした藩がありました。九州肥前佐賀(鍋島)藩です。1855年全長27cmのアルコール燃料で動く模型の機関車を完成させています。わずか2年後の出来事です。当時、佐賀藩では日本でも有数の近代技術研究所といえる「佐賀藩精錬方」の長(工場長)が藩主の鍋島直正から製作の許可を得て、「からくり儀右衛門」の名で知られる田中久重(後の芝浦製作所、現在の東芝を開設)に開発を委ね製作させたのです。
 さらにその17年後、僅か29kmとはいえ「新橋」と「横浜」の間で鉄道事業を開始させさたことは、動力源として「人」や「牛馬」しかなかった時代であったことを考えると、まさにその技術の習熟度は世界一のスピード記録といえます。

 鉄道建設の早期実現は文明化開花や近代化のシンボルとして、官民一体となった大プロジェクトの様に見えますが、実際は今日では想像も付かない、挫折と困難の連続でした。その中心で活躍されたのが明治政府大蔵民部省に勤める、伊藤博文(長州藩出身)と大隈重信(肥州藩出身)の2人官僚であったことはあまり知られていません。
 両名が日本に独自の鉄道を造ろうと立ち上がったのは明治2年のことでした。ところが、鉄道建設計画は国民や政府内部から猛烈な反対を受けることになります。借金だらけの財政で鉄道建設などに使っている余裕は無いし、使うなら軍備が優先だというのです。実は「維新の三傑」と言われる新政府の実力者、大久保利通・西郷隆盛(薩摩藩)と木戸孝允(桂小五郎・長州藩)は、むしろ反対勢力であり、鉄道建設よりも、迫り来る列強に対する軍備に予算を回したかったのです。
 鉄道建設の大反対勢力を強引に押し切り、必死の説得で計画は採択されたものの、「用地買収」という大きな壁が残っていました。当初のルートは海岸沿いの市街地を通す計画でしたが、そこには、新政府の中心的な役割を担っていた薩摩藩(浜松町・高輪などの大地主)がどうしても首を立てに振らないのです。窮した2人は奇想天外な発想で計画を実現させることになります。それは、品川の南にある「御殿山」を切り開いた土を使って埋め立て、海上に線路(海中築堤)を通すという起死回生のアイディアでした。不可能に近い用地買収交渉と工事費用の大幅削減という一挙両得の方法でした。ここに、全長僅か29kmの内10kmが海の上(50m沖合)を走るという世界でも例を見ない鉄道が出来上がりました。(現在の山手線よりずっと海よりを走っていた。)

 どんなに苦しくても幾多の困難を乗越え、鉄道建設に奔走したこの両名の「鉄道開通の信念」はどこから生まれたのでしょう。
 伊藤博文は22歳の時、イギリスに留学し西洋文明の発展、特に工業の発達と鉄道の重要性を深く認識して帰国しています。大隈重信は18歳の佐賀藩時代、前述したアルコールで動く模型の蒸気機関車の走行を見学した一人だったのです。両者ともその時の鮮烈な感動が原動力になったものと思われます。まさに「三つ子の魂百まで」です。
 最後まで反対の姿勢を崩さなかった新政府の元老大久保利通も、歩いて10時間かかっていた新橋・横浜間が、わずか53分で到着した試運転車輌での乗車体験をしたその日の日記に、「まさに百聞は一見に如かず。愉快に耐えず。鉄道の発展なくして、国の繁栄はありえない。」と、その日を境に推進派に鞍替えしたと伝えられています。