雑学のススメ No.37(09.8/09.9)

「隅田川に架かる橋」
〜江戸時代に遡ります〜
 現在の「隅田川」(荒川の支流として造られた川で、一般的には千住より下流を呼んでいるようです。)には18本(東武鉄道橋・JR総武線鉄道橋を除く)の橋が架かっています。浅草と浜松町を隅田川で結ぶ観光船が運航され、全ての橋を短時間でめぐることが出来ます。その姿は日本の橋梁技術の粋を集めて建造されたもので、耐震性に優れ、造形的にも美しく、夜になるとライトアップされ高層ビルの窓の灯りと重なって、幻想的な「おとぎの世界」へ誘ってくれます。
 今は春になると必ず誰もが口ずさむ滝廉太郎の「花」に歌われ、美しく穏やか見える「隅田川」や「橋めぐりの船旅」で華やかに見える「橋」ですが数々の歴史が隠されています。

(東京クルーズ案内図より) 
 「橋」は両岸を結ぶ為に架けるので、交通量が増えるに従って橋の数が増えてくるのが一般的なのですが、「隅田川に架かる橋」は建設された時期を見ると、余りにも不自然な状況が浮かび上がってきます。
 隅田川に最初に架けられた橋は、1594年(文禄3年)徳川家康の命を受けて建造された「千住大橋」@で、次が1659年(万治2年)の「両国橋」Iです。三番目は1693年(元禄6年)の「新大橋」J、四番目は1698年(元禄11年)の「永代橋」M、五番目は1774年(安永3年)の「吾妻橋」Eです。
 江戸時代には「千住大橋」を含め5つしかありません。徳川家康が江戸に入府して間もない頃には、幕府は江戸の防備上、隅田川には「千住大橋」以外の架橋を認めませんでした。しかしながら、幕府はそれまでの政策を転換して、橋を架けなければならない大事件が発生いたしました。それは1657年(明暦3年)の「振袖火事」です。この火災は江戸市中をなめつくし、十万八千人の死者を出したと伝わっています。特に両国あたりでは火の手に追われ逃げてきた人達が、隅田川に行く手を阻まれ力尽きて大勢の人が亡くなりました。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになりました。それが「両国橋」です。

 次は大きく時代は過ぎ、明治・大正に飛びます。1984年(明治7年)の「厩橋」G、1903年(明治36年)の「相生橋」N、1914年(大正3年)の「白髭橋」Bです。
 昭和に入ってすぐ1927年(昭和2)の「蔵前橋」Hと「駒形橋」F、1928年(昭和3年)の「言問橋」Dと「清洲橋」Kが一挙に建造されています。
 これは死者・行方不明者が14万人(その後の調査では10万人とも言われています)を超える日本災害史上最大の被害を与えた、1923年(大正12年)9月1日に発生した「関東大震災」の「帝都復興計画」の一環として実行されたものなのです。
 地震の後に発生した大火災から逃れる為「隅田川」に飛び込み多くの溺死者を出したと言われています。

 戦前では1940年(昭和15年)の「勝鬨橋」Qがあります。隅田川の最下流にあり、築地と月島を結ぶ交通手段として建造されました。大型船を通過させる為、時間を決めて中央が2つに割れて跳ね上がる橋として有名になりました。

(蔵前橋)


(駒形橋)

 その後間もなくわが国は第二次世界大戦に突入、東京都にとって被災者が100万人を超える最大の被害が起こってしまうのです。
 昭和20年3月の東京大空襲の際には、橋に避難した人が多数犠牲となりました。戦火に追われた人達が両岸から向こう岸へ行けば助かると信じてこの橋に殺到し、「言問橋」の上に千人近い人達が折り重なり、火勢から橋上に逃れた人々がそのまま橋上で被災したという悲劇の場所としての歴史を刻んでいます。

 最近では1964年(昭和39年)の「佃大橋」P、1979年(昭和54年)の「隅田大橋」L、1985年(昭和60年)の「桜橋」C、1988年(昭和63年)の「水神大橋」A、1993年(平成5年)の「中央大橋」Oと続きます。
 「隅田川に架かる橋」は悲劇的な悪役を演じてきたようですが、悲しい出来事ばかりではありません。関東大震災の折、唯一被害を免れた橋がありました。それは「新大橋」です。またあの悪名高い「言問橋」とこの「新大橋」は東京大空襲の折も焼け残り、大勢の命を救うことが出来たということです。
 このように「隅田川に架かる橋」は川の両岸を結ぶ「交通手段」として発達したものではなく、過去の衝撃的な大災害の経験を乗越えて、命を救う「命綱」として建造されています。現在は何事もなかったかのように、穏やかにゆったりと流れる「隅田川」や「ウォータフロント」や「ベイブリッジ」で代表される「橋」ですが、多くの尊い犠牲の教訓の上に今の繁栄があることを忘れてはならないと思います。

 注:「千住大橋」@〜「勝鬨橋」Qの@〜Qは、上流から下流への順を表しています。